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ゴリモチオのチオ

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可能性

可能性ってのはおっぱいと同じで、デカけりゃいいもんだと思いがちだが、そういうわけでもないようだ。

特に自分の未来・将来に関しては、可能性が大きくないほうが良い状態と言えるだろう。
言い換えれば、選択肢を狭められているほうが自分にとって良い状態である、ということだ。
(決して「可能性が小さい=良い将来になる」、ということを述べているのではないので勘違いを起こさないで欲しい。)
なぜならば、可能性を狭められているほうがこれからの人生に対して詳細な目標を掲げることができ、それはより豊かな人生を追求するのに都合が良いからである。
人生に綿密なヴィジョンを与えることはつまり人生に自分なりの達成度を見積もることであり、これは一見自分を苦しめるようにも思えるが、かといって何もない空間のなかでゴールを目指すことは不可能であり、目標を持たない人生というのは矛盾のようなものを感じられる。

人生設計は数学の問題を解くことに似ていると思う。
(もしかするとオイラーとかガウスとか、もっと遡ればピタゴラスなんかは「数学は人生だ」などと言っていたかもしれないが、俺はそんなでかすぎるスケールを語ったわけではない。これはただの比喩表現であり、人生を数式で表現できるとは思いたくないし、どうせ俺には解けない。)
数学の問題を解く時、解を導くための計算に入る前に誰しも方針を立てるだろう。
解に近づくためには段階的ないくつもの副解(造語だよ)の必要性を見積もり、それらを組み合わせて答えを導くという伝統的な解法フローチャートがあるからだ。
そして解を得るには必ず計算が伴い、それには膨大な労力を必要とする。
数学の問題を解く時人間は自ずと膨大な労力を無駄に消費することを避けるために、必要最低限の労力で済むような経路を思考し、それからやっと計算を始める。
このように人間は自分のパフォーマンスを上げるために、設計を行うのだ。
そしてその設計は、数学の問題を得るにあたっては綿密なものであればあるほど良いだろう。
数学に例えたために少し高尚に聞こえてしまうかもしれず現実味が薄れてしまいそうだが、実はなんだってそうだ。
料理なんかもそうだ。
とりあえずキャベツを切ってしまってからカレーを作り始めるなんてひとはなかなかいない。
(もしかするとキャベツ入りカレーもあるかもしれないな。少なくともウチのカレーにキャベツは入ってなかったので。。。あっ、金沢カレーは千切りキャベツと混ぜて食べるな・・・)
このようなプロセスを生成することは俺のような才能に乏しい人間でもやることだし、無駄な労力を省くという観点においてはもはや本能的な行いと言えるだろう。

しかし不思議なことに、人間はこのような合理的プロセスを生成する能力を備えているにもかかわらず自分の将来のこととなるとなかなかその能力を発揮できない。
俺は2年前期から教職課程を履修し始めたが、これに費やす労力はエンジニアになるという目標からは明らかに逸脱した経路を辿っており、単純計算すればエンジニアになるために費やせた労力からその分を差っ引いてしまうということになる。
つまりエンジニアにとって教職課程は「無駄な労力」なのだ。
事実、研究室は教職履修生を厄介がる。
中・高校教諭からしてみてもそうだろう。
なんだか中途半端な名前の大学で4年間電波やらなにやら目に見えないものの解析をやってきたような学生よりも、教育についての詳細な知識を積んできた学生のほうを採用したいことに間違いはない。

よって本当ならば、人間は可能性を狭める方向、理系っぽく形容するならエントロピーを減少させる方向に動くべきなのだ。
(エントロピーの増大を防ぐために生きる、ってこれはかなり的を射ているのかもしれない)

さて、さきほどの疑問に戻ろう。
なぜ大多数の人間は人生設計を綿密に行わないのか。
これは最近得た知識を利用すれば、人間が子孫繁栄を目指す生物であるに過ぎないからだ。
遺伝子レベルでそうなっているからだ。
きっと納得がいかないだろうが、これは科学的に間違いない原理だ。
(訳を話すと本を一冊解説する分量に達するので避けて通るが、これは本当にそうだと思ってます。利己的遺伝子ってやつです)
しかし、俺がここで簡単に頷いては調子に乗るやつがいるので、もうちょっと感情的な話をしたい。

「本当に無駄な労力は無駄か?」
本当に無駄な労力は無駄な労力であると切り捨てられ、なんの意味もなさないだろうか。
そんなことはないだろう。
それは努力という言葉に置き換え再評価できないだろうか。
エンジニアという視点からすれば、中学生に光は波であると騙す上手い術を持ってる人間よりも光の性質を完全に理解している人間を評価するだろうが、それはあくまでエンジニアの視点なのだ。
俺の視点ではない。
たしかにエンジニアは俺の無駄な労力を評価をしようとはしないし、できないだろう。
電気電子工学科っぽく言えば、無効電力と同等の扱いをされても文句は言えず、むしろ実際に仕事に変換されてないのなら総合評価としてはマイナスになっちまうよ、ってことだ。
しかし評価基準を自分に持ってきた場合、なぜ光は真空も通過してくるのかという疑問を抱く生徒をうまく騙せるスキルを持った自分のほうが絶対的に評価が高くなるではないか。
評価されないなら、変えられるうちに視点を変えてしまえ。
これはなんとも合理的な考え方であると思えないだろうか。
無駄な努力を評価できるのは俺だけだ。
つまりその努力を無駄と思うかどうか、ということだ。

なんと長い前置きだ。
ここでやっと俺の感情を素直にぶちまけることができそうだ。
「俺の努力は無駄だったろうか?」
ここまで自分に自信を持つことをオススメするような文章を書いておいて申し訳ないのだが、俺はこの疑問にはっきりと答えられない。
強いて答えるのであれば、無駄ではないと思い込んでいる最中、といったところだ。
なぜなら、一向にエントロピー減少の方向が見えないからだ。
つまり可能性が広がり続けているからだ。
俺はエントロピーの減少を望んでいる。

そろそろ研究室配属になる。
やりたい分野を考えれば考えるほど、自分という存在が危うくなる。
俺はいったい何がしたいのか、悩めば悩むほど、悩みが増える。
エンジニアになりたいのか、教師になりたいのか、それはなぜなのか、そして俺はどうしたいのか、自分でも頭の中がごちゃごちゃしてきてしまって頭の中を整理できない。
教職過程を履修したことは、とりあえず切ったキャベツだったのか。
そうすると、俺がこの大学に進んだことはとりあえず握った包丁だった可能性もある。
想像してみて欲しい、キッチンに冴えない男がひとり包丁を持って立っている。
彼の手元には千切りにした膨大な量のキャベツがある。
しかし彼はよく考えてみたら、今日はカレーが食べたかったのだ。
カレーを食べるには・・・まずカレー粉を買いに行かなければ・・・
それが俺だ。

もしかすると経済的な制限を受け進学を視野にいれることができないというほうがよかったかもしれない、とさえ思ってしまう。
制限を与えられるとそのなかで最善な方法を見つけなければならないわけだが、それは確実にエントロピーの減少方向にあるからである。
自分による自分の絶対評価は確かにモチベーションの維持に役立ち、本当に合理的なものの考え方の手法だと思えるし、個人的には非常にサバサバしていてカッコいいとも思う。
しかし本当に心からそれを「良い」と感じられないときが必ず来てしまうのが難点だ。
自信が揺らいだ時だ。
教職課程は確かに実用的なスキルを俺に与えてくれ、絶対人としての質をよりよいものにしてくれた。
しかし現実的な評価を受けなければならないとき、せっかく頑張って身につけたスキルでもそれが世間にとって不必要な場合は、意味の重みづけがどうしても小さくなってきてしまい、むしろ膨大な悩みの種のひとつになってしまうのだ。
つまり、やっぱり自己評価は感情依存であり、結局のところ現実を前に萎縮してしまえばなんの効力ももたなくなってしまう。
そう考えると自己評価も結局は、外部評価に内包されてしまっているのではとも思えてしまう。
(少なくとも俺の場合は。)
だからある程度制限を受けた人間、狭い視野を持った人間(褒め言葉です)のほうがいいと思えてくるのだろう。
エントロピー減少の経路の初期値が人より進んでおり、つまりやることの明確化が他人に比べ簡単であるから、さらに良い結果が付随するのかもしれない・・・と不幸中の幸いを望んでしまうという精神だ。


「どうして人は不思議なことに、人生設計においては無駄な労力を費やすようなことをしてしまいがちなのか?」
この疑問に対しては、もう少し頭が落ち着いている時に考えなおしてみたいと思う。
ただこの段階でひとつ言えることは、可能性を広げることを無駄な努力と言われてしまうようになってしまうのはおおよそ大学生の頃からである、ということだ。
言い換えれば、全てが無駄だったというわけではないということでもある。
人間は自分に最適な人生を見つけ出すために、まずは可能性を広げるだろう。
とりあえずサッカーもバスケも野球もしてみてから一番得意なものを極めることにしよう、と考えることはまさに一度可能性を広げることだ。
しかしその可能性は一度ピークを迎えたあと何処かへと収束しなければならない。
極めるということは可能性を狭めることだからだ。
可能性を広げることは無駄ではなかった。
しかしこれからはそれを極めなければならない。
その観点からしてやはり、エントロピーの減少は必須だ。
そして人生という設計においてはそのピーク点の設定がおおよそ大学生の時期にあるんだ、ということなのだ。
この時期からが所謂大人ってやつなのだと思う。
一度自分で可能性を広げなければならないくせいに、その収束も自分でしなければならないのがなんとも厄介なところだ。
(エントロピー図だけを見れば、フタを開けてみたら結局なにもなかった、みたいになってしまいそうだ。)
そしてもうひとつは、考える規模が大きすぎる、ということであると思う。
きっと人間は構造的に長期的な計画ができない。
なぜなら、長期的な計画は種の保存に大した利益を生まないからだ。
(根拠を示したいところだが、これもまた遺伝子に関係してくる気がするので避ける。)
すぐに結果を得られるようことには具体的に思考が巡りやすいのに、結果を得るのに時間がかかることにはどうしても大きな力を注げないのは、実は当然の摂理なのだと思う。

まあ、ここから教育制度とか、日本の社会制度に激しい対立意見を連ねることもできるが、思ったけどこれブログだし、疲れたので適当なところで終わりにしておく。

結局のところ、これからは可能性を狭めていく時期であり、可能性が小さいほどよいということもありえるということだ。
おっぱいも小さいなりに良いことがある、そういうことだ。





















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コメント
1.無題 リモさん (2013/12/08 14:27)

長文おつかれさまです!

おれも今まさに就職活動が始まったけど
可能性なんてのは一向に狭まる気配なんて
なくて今からどの業種がいいのかなー
とか思ってる次第ですよ。
可能性とかいうとなんかカッコいいかも
しれないけど、ただ単に俺は将来のことを
軽視しすぎてた感じがあるよね。
軽視ってか目を背けるのほうが正しいかな。

あんさんはキャベツを切ってカレーが
食べたいんだった、ってなってるらしいが
キャベツ入りカレーも個性的でいいでしょ!

意味なく時間を浪費することは
無駄だと思うけど、教職をとるための
行動はエンジニアになったとしても無駄では
ないんじゃないすかね。

まあうまく書けないんで近いうちに
収録かそっち行ったとき話しましょうか!

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