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ゴリモチオのチオ

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エナジードリンクとの日々

いやあああああああああああ、長かった、長かったよ~!!
ついに長きに渡るテスト期間が終了し、毎日エナジードリンクを飲む日々からも脱出です。
んで今日は帰宅後すぐに睡眠、約6時間の睡眠時間を経て、今です。
ようやく俺に春休みが訪れましたよ。
まあ、今回の春休みは案外やることが多いし早くも3月から研究室が始まってしまうのですぐに終わってしまうのですがね・・・

ちょっと話し変わるんだけど、僕はテスト期間にエナジードリンクをよく飲みます。
単純に、美味しいからです。
俺ああいうちょっと毒々しい飲み物が好きなんですよね。
だから飲むだけでテンションが上がる。
(実際飲んだ直後に寝てしまうこともしばしばですが)
いままでいろんなエナジードリンクを飲んできました。
モンスターエナジー、Red Bull、BURN、スタバのやつ、MAD CROC、Rock Starなどなど。
ここで俺のオススメエナジードリンクをランキング形式(BEST3)を発表させてもらいますね。

やはり第3位からでしょう、これは。

第3位「Rock Star」

これは200円でRed Bullのロング缶と同じ量で、コストパフォーマンスの良さが感じられますね。
味はRed Bullと似てるとおもいきや、「Red Bullに似てるんだよね~」と思い込んで飲むと全然似てないな、って感じの味です(謎)
てかBEST3決めるほど飲んでないんですよ。
ぶっちゃけた話、第3位はスタバのヤツ以外ならなんでも構いませんね。
スタバの緑のやつ、あれクッソまずいです。
飲むことに体力を使うレベルです。
エナジードリンクは体力を消費した状態で商品開発してこそ。
体力MAXで商品考案したフラペチーノ野郎がつくるエナジードリンクなんぞ所詮こんなもんです。


第2位「モンスターエナジー」

1位ととても迷いました!!
実際、俺が一番本数を消費しているエナジードリンクはこのモンエナです。
カフェイン量も他のエナジードリンクに比べ多く含まれており、パッケージのデザインも強烈。
そして200円ですから、RockStarのコスパを上回ってますね。
味はちょっと甘いですが、俺はこれが好きですね!
うん、申し分ない!95点といったところでしょう!
であるならばなぜ、1位ではないのかって?
その疑問には1位の商品発表と同時にお答えしましょう。

そして栄えある第一位は・・・











第1位「Red Bullエナジードリンク」

予めことわっておきましょう。

翼は授かりません!!

いやー、僕が普段モンエナばっかり飲んでるの知ってるみなさんからしたら意外だったでしょう。
しかし現実は非情なもので、結果的に大衆的なエナジードリンクRed Bullが第一位となりました。
Red Bull、味はおいしいですよねやっぱり。
でもモンスターと同じサイズとなると275円とちょっとお高め。
しかもカフェイン量はモンスターに届かず。
うーん、ちょっと残念な感じ。
じゃあなんでモンエナじゃないのかって?

モンスターに飽きたからだよ!!!
つーかよ、モンスターだろうがRed Bullだろうがなんだろうが、テストの点数は変わんねえんだよ!!!
こっちは4単位落としかけてんだよ!!!
なにがパフォーマンス発揮じゃ!!
死ね!!!

あとな、BURNエナジードリンク、お前缶の裏にこんなこと書いてあったけどよ。

「燃えるココロに火をつけろ!エナジードリンク+持続系サポートBCAA・リボース配合」

そもそもココロが燃えてんならエナジードリンクなんて必要ねえんだよ!!!!!
キャッチコピーバカじゃねえのか!!!!
やる気はご自身の問題ですってか!!!!
やかましいわボケ死ね!!!!!



ということでね、いかがだったでしょうか。
エナジードリンクはあくまでテンションを一時的にあげるためのものです。
飲んだから勉強が捗るとか、そんなこと期待してはダメ。

いやあ、テスト期間はながかったです。
そう、もう3年生が終わりました。
これはテストのある科目を大学で履修するのが終わったことを同時に意味します。
だからあれほど長かったなと協調したのですね。
大学で受けるテストのラストは光エレクトロニクス、今日の2限でした。
終わりよければすべてよし、シェイクスピアですか?彼はそう残しましたね。
僕、この言葉が嫌いなんです。
だって過程ってやっぱり大事じゃないですか。
だから終わりだけってのはちょっといかがなものかと思うんです。

そう、光エレクトロニクスの答案、半分も埋められなかったんです。


はいはいどーせ終わり方が良くなかったですよ!!!!
いくら勉強したってテストとれなきゃねえ・・・?ってか?
やかましいわ!!!!!!!
長い長い三年間が終わったけど、君そんなに単位落としてたら
結局4年になっても再履修だね?( ´,_ゝ`)プッ
うっせー死ね!!!!
シェイクスピア死ね!!!!
死んでる!!!!
ってもうええわ!!!!!!




うん、とりあえずゆっくり休むよ。

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COME BACK MY KOYO!!!!!!!!!!!!!!!!!!

明けましたね、2014年です。
今年で僕はもう22歳になるんだなあと考えると、いよいよ子どもでは許されない時期に到達してしまったんだなあとひしひしと感じています。
(感じ始めるのが遅いって?やかましいぞ)

年賀状は先輩から頂いた一通のみでした。
僕は手紙のやり取りなんかは味があって好きなのですが、もう何年も年賀状を書いていない気がします。
時代ですね。
ケータイを使い始めたのが中学校1年生のとき。
あのころは今よりも通信料が比べ物にならないくらい高かった(ダブル定額ライトとかに入らないとEメール一通でもものすごい通信料が発生していた。そもそもいま「パケット通信」なんて言葉はあまり耳にしないよね。今の指標はデータ容量。俺は最近スマホを変えてついについに4Gの世界にデビューしその早さを存分に味わっている。理論上の最大受信速度は326Mbps、送信速度は86Mbpsだとか。俺が中学生の頃は1MBを超える画像なんて重すぎて添付できなかったのに・・・とまあ通信速度とかケータイの進歩とか語りたいところだが、なにせこれはカッコの中。このくらいにしておく)。
だからデコレーションメールなんてできなかったし(そもそもしないけど)、この頃はまだ年賀状を書いていた気がします。
高校に入ってメールで済ませるようになったな。
0時ピッタリに送信ボタンを押すも、送信失敗!なんて記憶が蘇る。
もうこの頃から年賀状なんて書いていない。
今はスマートフォンの時代。
だれでもアプリケーションで簡単におしゃれな年賀状を作成して、ワンタッチでみんなに送信!
しかも無料!
年賀状を送らなくなるわけですね。
本や手紙の良さはデジタルでは表現できないと(信じている)考えていますが、電子書籍やスマホの利便性は本当に高いので、そのうち世の中から文通なんてなくなってしまうかもね。
年賀状、もう時期が完全に過ぎてしまったので寒中見舞いとして返すことにしようかな・・・。笑

さておき、年末年始といえば今年の抱負を述べたりだとか去年の反省をしたりするのが一般にある風潮だ。
本当は新しい学期が始まるたびにとか、毎月とか、そんな間隔で心を入れ替えることができれば良いのだろうが、人間はそんな簡単に決心を固められるようにできていないので、やはり一年の節目に反省することは丁度よいペースなのだろう。

去年の反省とか今年の抱負こそ、1日をまるまる潰して自分の持つ最大の知恵を絞って考えるべきことなのだと思う。
しかし僕はなぜだか去年の反省とか今年の抱負を述べることに目一杯頭をつかう気になれないのだ。
前にも述べたように、人間は長期的に物事を思考し順序だてて実行していくことをしにくい構造になっている(と思う)。
その思考に個人差はあるだろうが、自分の場合、計画を立てて順序どおりにうまくいくなんてことはほとんどない。
きっと僕には、1年間の目標を立ててそれを1年かけて実行するというような計画性の高い行動をとれる才能は無いのだろう。
(大学に入ったら一度でいいのでちゃんと推敲したしっかりとした長文を書きたいと思っていたし、コピックを使ってシド・ミードのようなデザイン画を描き上げたいとも思っていたが、未だに実現できていない。)
きっと根っからの怠惰なのだ。
その怠惰を認可し、日々を流れるままに過ごしているという現実がまた怠惰だ。
でもまあいい、腐っても(もう腐ってるかもしれないが)これが「俺」なのだ。

でも簡単に去年一年の自分を振り返ることにしよう。
正直そんなに悪いことがなかったように思う。
もちろん受動的な出来事について。
順調に成績を上げることができたし、本当に可愛い彼女もできた。
第一希望の研究室にも行くことができたし、教職レポートでは守先生から念願のX評価(一番良いやつだぜ)を頂いた。
学習態度については今までの自分とは一変した年であった。
ようやく理論的な思考が身についてきたな、と思う。
これは本当に大きな変化だった。
今までよりもよく考えるようになったと思うし、本も読みこむようになった。
だからテストが終わっても理論を理解できているために記憶が途絶えず、次のステップに入る際に応用を効かせることが出来るように進歩した気がする。
(きっと普段つるむ仲間が徐々に変化していって、その仲間に思考が優秀な人間が多かったというのも変化の大きな一因である。ちなみに普段つるむ仲間が変化していったのは前にいた仲間と仲が悪くなったわけでは決してなく、みんな留年しちゃっていろんな理由があって学校で会わないことが多くなってしまったからだ)
まあそんなわけでコウヨウver.2013はより理論的な思考力を身につけたアップデートとなった。

しかしアップデートは時に、予想外にも不具合を生じることがある。
iOSはバージョンアップでiPhone5以前のバージョンのユーザーに不満を抱かせてしまった。
LINEもLINE掲示板による出会い厨が年齢確認制度を伴うアップデートにより怒り心頭といった具合だ。
つまりアップデートが絶対にうまくいくなんてことはないのだ。

理論的な思考と引き換えに、僕は以前持ち合わせていた鋭さや爆発力を失ってしまった気がする。
もっと噛み砕いて言うと、左脳を使う力を身につけた代わりに、右脳を使う力は衰えた、という感じだ。
「俺が○○といったら、△△は○○なんだよ!」
みたいなジャイアニズム的思考が衰え、良く言えば冷静になったし、悪く言えば自分が弱くなった気がする。

僕は地元にいるなんでも力で押し通しちゃう系の友人が大好きで、密かに憧れがある。
それはきっと単純に自分の意見を通すどんな方法にせよ通すことができるからだ。
しかし僕にそんな腕力はないし、そんなキャラでもない。
反対に、常に冷静に物事を考え、理論的に自分の意見をあいてに通すこと(論破)の出来る人間にも憧れる。
僕がなれる可能性があるのであれば、きっとこちらのタイプの人間だろう。

しかしこちらに関しても僕にはまだそんな力量はなく、ただただ自分の感情を自分のなかで説得力のないまま温め、悶々としているだけなのだ。
きっとこれが爆発力や鋭さを失わせている原因だろう。
前には思い立って考えずに行動したが、今では一度考えるようになった。
その思考がいい方向にも悪い方向にも働いている、それ今の僕の状況だ。
(自分の感情を、理論的な思考を通過した後に、その爆発力を保ったまま発信できるのが一流の論客といった奴らなのだろう)

だから今年は一度自分の爆発力と鋭さ(性格の悪さといっても過言ではないが)を取り戻そうと思う。
具体的に記述したいが、もうレポートをサボって1時間になるので今日はこのへんでやめる。
簡単にまとめると、俺が今までに思い込んできた「俺がいいヤツだと思ったヤツはいいヤツに違いないし、俺がコイツは死んだほうがいいなって思ったヤツは死ぬべきだ」という思想をリスペクトしつつ、感情論から徐々に理論に変化させていくことをひとつの目標にしようということだ。
まとめると「Come Back My Koyo」なのだ笑






クリスマス

はあ。。。来てしまった、待ちに待ったクリスマスイブだ。

クリスマス前には、なんとも言えぬ雰囲気が漂う。
ワクワク、ドロドロ、ピリピリ、ショボショボ…
(とてもこの雰囲気を全て比喩表現する気力はないので擬音で勘弁して欲しい)
子供の頃には「ワクワク」しかなかったに違いない。
クリスマスが面倒に感じるようになったのは一体いつからなんだ!?
不毛な議論を無視することができなくなったのは一体だれのせいだ!?
そんな事に今日は簡単に触れて寝るとしよう。

『不毛な議論その① 日本人にとってのクリスマス』
「クリスマスってイエス・キリストの誕生日だろ、なぜ無宗教の俺たちが騒がなきゃならないんだ!」
これは本当によく聞く不毛な議論だ。
確かにごもっともだ。
クリスマスは日本に本来存在する文化ではなく、クリスマスを祝う風習が生まれたのは明治以降であるという。
更にクリスマスを祝おうという風潮をつくりだしたのはやっぱりどこかの商売上手であり、誰もイエス・キリストの生誕を心から喜んでなどいないのだ。
しかし、街中いや国中が天皇の誕生日よりもキリストの誕生日で盛り上がる。
(それにイエス・キリストってとっくに死んでるんだぜ!死んでるんだぜ!?)
くそー、やってられないぜ!

『不毛な議論その② 経済にとってのクリスマス』
なんてことのないスーパーで、ちょっとイイカンジの包装をしただけの鶏肉が普段よりも高く売られる。
8cmほどしかないプラスチック製クリスマスツリーが光りもしないのに1,000円で売られる。
ただの炭酸ジュース(しかも明らかにコーラやファンタよりマズイ)がシャンパン風のビンに入れられとんでもない値段で売られる。
,,,もういいだろう。
これがクリスマスに行われる商売人の暴挙(と言っていいだろう)である。
なんでこんなもの買ったんだ!と、クリスマスを過ぎると頭を悩ませるひとも多いだろう。
(現に筆者がそうだ。8cmツリーを買った大馬鹿者は俺だ。)
そう、上に列挙したボッタクリの品々はなんと、誰もが驚くほどバカ売れしているのである。
いつもと違う音楽を一斉にかけ赤と緑のビビットな包装をチカチカさせ洗脳し、私のように崇高な人間からでも金を巻き上げてしまうのが恐るべきクリスマスである。
くそー、やってられないぜ!

『不毛な議論その③ 恋人がいないひとにとってのクリスマス』
そもそもなぜクリスマスに恋人がいないってだけで外出を制限されなければならないんだ!
クリスマスだって年末だ、ひとりで買い物に行ったっていいじゃないか!
なんで俺はこんなに寂しい思いをしなければならないんだ!
本場西洋では恋人どうしでなくとも家族みんなでも祝うイベントだそうじゃないか!
家族みんなでKFCと不二家のケーキを囲い、シャンメリーを飲んで何が悪い!
家に篭って2chして何が悪い!
その通りだ、何も悪くない。
しかし残念なことにこの日本には被災者をみんなで支えようという素晴らしい意識はあっても、恋人がいない人同士助けあおうという意識は皆無だ。
なぜ恋人がいないだけでこんなに寂しい思いをしなければならないのだろう、、、。
くそー、やってられないぜ!

どうだろう。
これがクリスマスという世界である。
非情だ、あまりにも酷すぎる...
こんなイベント、なくなってしまえばいいのに!!

...本当にそうだろうか。

クリスマスって本当に無駄の多い宗教行事なのだろうか、商売道具だけなのだろうか、恋人同士のみがたのしめるイベントなのだろうか…
改めてよく考えてみると、クリスマスに嫌なことって本当に数えるほどである。

『不毛な議論その①について』
日本人が国中お祭り気分になるのはクリスマスとお正月くらいだ。
しかしお正月は日本古来の風習であるため地域や家系によってお祝いの伝統が異なる場合が多く、またそれらはたいていある程度の尊厳を持っているため簡単に崩れることがない。
つまりお正月はお祝いムードではあるものの、若干気むずかしい一面を持ち合わせているのである。
初売りなんかもあるが、それによって伝統が崩れるということはないだろう。
対してクリスマスは西洋由来で、つまり輸入文化であり、さらにキリストなんて全く知りもしないとっくに逝ったおっさんの誕生日をイルミネーションを見ながらチキンを食って祝うなんていう訳の分からないスタイルのお祭りなのだから、これは流行るに決まっている。
お正月のもつ気むずかしい一面がなく、自由に自分たちのスタイルで好きなものを食べてすきなオモチャを買い好きな場所で祝うことが出来る。
つまり変な伝統に縛られず自由な形で国中が盛り上がれる唯一のイベントがクリスマスなのである。
これはいいんじゃないか。

『不毛な議論その②について』
一斉に同じようなメロディーの音楽をかける。
商品は赤と緑で包装し、時々金色を散りばめる。
メリークリスマスというステッカーを貼る。
これだけでチキンがいつもの10倍売れる。
これは驚くべき経済効果だ。
アベノミクスもひれ伏すほどの恐るべき金の流れ。
なぜならプラスチック製のモールがぐるぐる巻かれただけの小さなクリスマスツリーが1000円で売れてしまうのだから。
優秀な人材を集め高度な教育をし、知識の結晶として作り上げられた半導体ウェハよりもよっぽどいい利率かつ驚くほど低い生産コストだ。
しかも毎年この時期は来るのだから、一度に大量生産してしまえば来年も再来年も売り飛ばすことが出来る。
素晴らしい。
ただクリスマスだというだけで、いつもの何十倍も金が世に流れ出るのである。
さらに原因が物体依存ではないため、クリスマスなら売れるという定式は崩れることがないし安定的に経済効果が高い時期といって過言ではない。
これはいいんじゃないか。

『不毛な議論その③について』
これだ。
クリスマスを嫌味嫌う最も大きな理由はこれだ。
本当のところ、誰しも心のなかではそれが持つイベントとしての性能の高さや経済効果の高さは認めているのだ。
しかし恋人がおらず寂しいという気持ちを隠さなければならないゆえに上記2つの理由を簡単に認めるわけにはいかないのだ。
「ああ!恋人さえいれば!」

…と、男も女も思っている。
と、男も女も思っている。
どうだろう、うまく使えそうだとは思わないだろうか。
国中が盛り上がれる唯一のイベントがクリスマス
と言った。
これはつまり言い換えると、男と女も盛り上がりたいとみんなが思う日、ということだ。
なんだかよくわからないオッサンが2000年も前に生まれて勝手に死んでくれただけで、男と女が同時に盛り上がりたいと感じる奇跡的タイミングをなんとクリスマスというたった1日に集約してくれたのである!
すばらしい!
男は女をゲットする絶好のタイミングであり、しかもその成功率は他と比べ圧倒的に大きいだろう。
(事実俺もクリスマスだけは誰かと過ごせている)
これはいいんじゃないか。



クリスマスが面倒に感じるようになったのは一体いつからなんだ!?
この疑問に明確な答えはなさそうだ。
サンタにプレゼントをもらえなくなってしまったから、つまり大人になってしまったから面倒になったのかもしれないし、大人になって恋人が必要になってしまったから面倒になったのかもしれない。
でもよく考えてみると、クリスマスというのは本当に上手く出来ているのである。
そしてとくに、大人にとってよくできた行事なのである。

不毛な議論を無視することができなくなったのは一体だれのせいだ!?
こいつには明確な答えがありそうだ。
こんなにも数多くの不毛な事件を世に引き起こした人間はこれまでにも、そしてこれからもコイツしかありえないだろう。








可能性

可能性ってのはおっぱいと同じで、デカけりゃいいもんだと思いがちだが、そういうわけでもないようだ。

特に自分の未来・将来に関しては、可能性が大きくないほうが良い状態と言えるだろう。
言い換えれば、選択肢を狭められているほうが自分にとって良い状態である、ということだ。
(決して「可能性が小さい=良い将来になる」、ということを述べているのではないので勘違いを起こさないで欲しい。)
なぜならば、可能性を狭められているほうがこれからの人生に対して詳細な目標を掲げることができ、それはより豊かな人生を追求するのに都合が良いからである。
人生に綿密なヴィジョンを与えることはつまり人生に自分なりの達成度を見積もることであり、これは一見自分を苦しめるようにも思えるが、かといって何もない空間のなかでゴールを目指すことは不可能であり、目標を持たない人生というのは矛盾のようなものを感じられる。

人生設計は数学の問題を解くことに似ていると思う。
(もしかするとオイラーとかガウスとか、もっと遡ればピタゴラスなんかは「数学は人生だ」などと言っていたかもしれないが、俺はそんなでかすぎるスケールを語ったわけではない。これはただの比喩表現であり、人生を数式で表現できるとは思いたくないし、どうせ俺には解けない。)
数学の問題を解く時、解を導くための計算に入る前に誰しも方針を立てるだろう。
解に近づくためには段階的ないくつもの副解(造語だよ)の必要性を見積もり、それらを組み合わせて答えを導くという伝統的な解法フローチャートがあるからだ。
そして解を得るには必ず計算が伴い、それには膨大な労力を必要とする。
数学の問題を解く時人間は自ずと膨大な労力を無駄に消費することを避けるために、必要最低限の労力で済むような経路を思考し、それからやっと計算を始める。
このように人間は自分のパフォーマンスを上げるために、設計を行うのだ。
そしてその設計は、数学の問題を得るにあたっては綿密なものであればあるほど良いだろう。
数学に例えたために少し高尚に聞こえてしまうかもしれず現実味が薄れてしまいそうだが、実はなんだってそうだ。
料理なんかもそうだ。
とりあえずキャベツを切ってしまってからカレーを作り始めるなんてひとはなかなかいない。
(もしかするとキャベツ入りカレーもあるかもしれないな。少なくともウチのカレーにキャベツは入ってなかったので。。。あっ、金沢カレーは千切りキャベツと混ぜて食べるな・・・)
このようなプロセスを生成することは俺のような才能に乏しい人間でもやることだし、無駄な労力を省くという観点においてはもはや本能的な行いと言えるだろう。

しかし不思議なことに、人間はこのような合理的プロセスを生成する能力を備えているにもかかわらず自分の将来のこととなるとなかなかその能力を発揮できない。
俺は2年前期から教職課程を履修し始めたが、これに費やす労力はエンジニアになるという目標からは明らかに逸脱した経路を辿っており、単純計算すればエンジニアになるために費やせた労力からその分を差っ引いてしまうということになる。
つまりエンジニアにとって教職課程は「無駄な労力」なのだ。
事実、研究室は教職履修生を厄介がる。
中・高校教諭からしてみてもそうだろう。
なんだか中途半端な名前の大学で4年間電波やらなにやら目に見えないものの解析をやってきたような学生よりも、教育についての詳細な知識を積んできた学生のほうを採用したいことに間違いはない。

よって本当ならば、人間は可能性を狭める方向、理系っぽく形容するならエントロピーを減少させる方向に動くべきなのだ。
(エントロピーの増大を防ぐために生きる、ってこれはかなり的を射ているのかもしれない)

さて、さきほどの疑問に戻ろう。
なぜ大多数の人間は人生設計を綿密に行わないのか。
これは最近得た知識を利用すれば、人間が子孫繁栄を目指す生物であるに過ぎないからだ。
遺伝子レベルでそうなっているからだ。
きっと納得がいかないだろうが、これは科学的に間違いない原理だ。
(訳を話すと本を一冊解説する分量に達するので避けて通るが、これは本当にそうだと思ってます。利己的遺伝子ってやつです)
しかし、俺がここで簡単に頷いては調子に乗るやつがいるので、もうちょっと感情的な話をしたい。

「本当に無駄な労力は無駄か?」
本当に無駄な労力は無駄な労力であると切り捨てられ、なんの意味もなさないだろうか。
そんなことはないだろう。
それは努力という言葉に置き換え再評価できないだろうか。
エンジニアという視点からすれば、中学生に光は波であると騙す上手い術を持ってる人間よりも光の性質を完全に理解している人間を評価するだろうが、それはあくまでエンジニアの視点なのだ。
俺の視点ではない。
たしかにエンジニアは俺の無駄な労力を評価をしようとはしないし、できないだろう。
電気電子工学科っぽく言えば、無効電力と同等の扱いをされても文句は言えず、むしろ実際に仕事に変換されてないのなら総合評価としてはマイナスになっちまうよ、ってことだ。
しかし評価基準を自分に持ってきた場合、なぜ光は真空も通過してくるのかという疑問を抱く生徒をうまく騙せるスキルを持った自分のほうが絶対的に評価が高くなるではないか。
評価されないなら、変えられるうちに視点を変えてしまえ。
これはなんとも合理的な考え方であると思えないだろうか。
無駄な努力を評価できるのは俺だけだ。
つまりその努力を無駄と思うかどうか、ということだ。

なんと長い前置きだ。
ここでやっと俺の感情を素直にぶちまけることができそうだ。
「俺の努力は無駄だったろうか?」
ここまで自分に自信を持つことをオススメするような文章を書いておいて申し訳ないのだが、俺はこの疑問にはっきりと答えられない。
強いて答えるのであれば、無駄ではないと思い込んでいる最中、といったところだ。
なぜなら、一向にエントロピー減少の方向が見えないからだ。
つまり可能性が広がり続けているからだ。
俺はエントロピーの減少を望んでいる。

そろそろ研究室配属になる。
やりたい分野を考えれば考えるほど、自分という存在が危うくなる。
俺はいったい何がしたいのか、悩めば悩むほど、悩みが増える。
エンジニアになりたいのか、教師になりたいのか、それはなぜなのか、そして俺はどうしたいのか、自分でも頭の中がごちゃごちゃしてきてしまって頭の中を整理できない。
教職過程を履修したことは、とりあえず切ったキャベツだったのか。
そうすると、俺がこの大学に進んだことはとりあえず握った包丁だった可能性もある。
想像してみて欲しい、キッチンに冴えない男がひとり包丁を持って立っている。
彼の手元には千切りにした膨大な量のキャベツがある。
しかし彼はよく考えてみたら、今日はカレーが食べたかったのだ。
カレーを食べるには・・・まずカレー粉を買いに行かなければ・・・
それが俺だ。

もしかすると経済的な制限を受け進学を視野にいれることができないというほうがよかったかもしれない、とさえ思ってしまう。
制限を与えられるとそのなかで最善な方法を見つけなければならないわけだが、それは確実にエントロピーの減少方向にあるからである。
自分による自分の絶対評価は確かにモチベーションの維持に役立ち、本当に合理的なものの考え方の手法だと思えるし、個人的には非常にサバサバしていてカッコいいとも思う。
しかし本当に心からそれを「良い」と感じられないときが必ず来てしまうのが難点だ。
自信が揺らいだ時だ。
教職課程は確かに実用的なスキルを俺に与えてくれ、絶対人としての質をよりよいものにしてくれた。
しかし現実的な評価を受けなければならないとき、せっかく頑張って身につけたスキルでもそれが世間にとって不必要な場合は、意味の重みづけがどうしても小さくなってきてしまい、むしろ膨大な悩みの種のひとつになってしまうのだ。
つまり、やっぱり自己評価は感情依存であり、結局のところ現実を前に萎縮してしまえばなんの効力ももたなくなってしまう。
そう考えると自己評価も結局は、外部評価に内包されてしまっているのではとも思えてしまう。
(少なくとも俺の場合は。)
だからある程度制限を受けた人間、狭い視野を持った人間(褒め言葉です)のほうがいいと思えてくるのだろう。
エントロピー減少の経路の初期値が人より進んでおり、つまりやることの明確化が他人に比べ簡単であるから、さらに良い結果が付随するのかもしれない・・・と不幸中の幸いを望んでしまうという精神だ。


「どうして人は不思議なことに、人生設計においては無駄な労力を費やすようなことをしてしまいがちなのか?」
この疑問に対しては、もう少し頭が落ち着いている時に考えなおしてみたいと思う。
ただこの段階でひとつ言えることは、可能性を広げることを無駄な努力と言われてしまうようになってしまうのはおおよそ大学生の頃からである、ということだ。
言い換えれば、全てが無駄だったというわけではないということでもある。
人間は自分に最適な人生を見つけ出すために、まずは可能性を広げるだろう。
とりあえずサッカーもバスケも野球もしてみてから一番得意なものを極めることにしよう、と考えることはまさに一度可能性を広げることだ。
しかしその可能性は一度ピークを迎えたあと何処かへと収束しなければならない。
極めるということは可能性を狭めることだからだ。
可能性を広げることは無駄ではなかった。
しかしこれからはそれを極めなければならない。
その観点からしてやはり、エントロピーの減少は必須だ。
そして人生という設計においてはそのピーク点の設定がおおよそ大学生の時期にあるんだ、ということなのだ。
この時期からが所謂大人ってやつなのだと思う。
一度自分で可能性を広げなければならないくせいに、その収束も自分でしなければならないのがなんとも厄介なところだ。
(エントロピー図だけを見れば、フタを開けてみたら結局なにもなかった、みたいになってしまいそうだ。)
そしてもうひとつは、考える規模が大きすぎる、ということであると思う。
きっと人間は構造的に長期的な計画ができない。
なぜなら、長期的な計画は種の保存に大した利益を生まないからだ。
(根拠を示したいところだが、これもまた遺伝子に関係してくる気がするので避ける。)
すぐに結果を得られるようことには具体的に思考が巡りやすいのに、結果を得るのに時間がかかることにはどうしても大きな力を注げないのは、実は当然の摂理なのだと思う。

まあ、ここから教育制度とか、日本の社会制度に激しい対立意見を連ねることもできるが、思ったけどこれブログだし、疲れたので適当なところで終わりにしておく。

結局のところ、これからは可能性を狭めていく時期であり、可能性が小さいほどよいということもありえるということだ。
おっぱいも小さいなりに良いことがある、そういうことだ。





















Let's Study English

レッツ スタデー イングリシュ !

今となってはもう10年近く前のことになってしまうのか。
時の流れは早い。
俺が初めて自前の音楽プレイヤーを持ったのは小学校6年の頃、自宅から車で30分のヤマダ電機で購入したSONYのMDウォークマンだ。

1万円を超えるそいつは当時の俺にとってかなり大きな買い物。
初めて自分で買った1万円以上の買い物だったかもしれない。
貯めていたお年玉を使って購入したウォークマンは高校1年の冬まで使った。
MD録音は必ずSPモード、LPは邪道。
曲名はコンポのクソ小さいディスプレイからちまちまと入力し、MD本体にジャケットのレタリングを真似して描いたシールを貼る。
なるべくそのアルバムにあったMDの色を選択して録音する。
当時自分のPCを持っていなかった俺はCDで編集することができず、今みたいに簡単にプレイリストを作成できなかった。
曲順は録音順、曲名は再度打ち込みだ。
複数のアルバムから数曲選ぶ場合はいちいちCDをとっかえひっかえしてコンポにぶち込まなければならなく、ひとつのMDで好きな曲だけ聞く場合はMDを出し入れするたびにチェックマークを付け直さなければならない。
夜寝る前の布団の中、暗い部屋でイヤホンに繋がった小さな長方形のリモコンの緑色に光るディスプレイを見ながら好きな曲だけにチェックマークを施し、再生する。
寝るときはもっぱらビートルズ青盤のDISC1を聞いていた。
親のノートPCのお下がりを手に入れた高校1年の冬、俺はiPod nanoを買った。
今あのウォークマンは、どこにあるのだろう。

記憶を辿ると、俺はどうやら物心がついたときからビートルズばかり聞いている。
小学校低学年の頃親が買ってきた『Beatles1』というアルバムがキッカケだ。
小学校3年の時に公文式の英語リスニングで使用するために家に来たイーマスターでは、英会話よりも多くBeatles1を聴いた。
(しかしイーマスターは厄介だった。英語練習用のためにデフォで3回繰り返し再生の設定になっている。まずそれを解除してから再生しないと、Love Me DoのあとにまたLove Me Doだ。)
中学に入ってからも洋楽ばかり聞いた。
LinkinPark、Offspring、FallOutBoy、AvrilLavigne、MyChemicalRomance。
高校に入ってついにラップにハマる。
Eminem、Dr.Dre、Drake、RageAgainstTheMachine。
つまり俺は洋楽を多く聞いてきたのだ。
しかし俺は驚愕の事実に気がつく。

一 切 聴 き 取 れ て ね え 。

公文の英会話をしっかり3回聞いていないからだって?
うるさいな。
洋楽のほうがメロディアスでパンクで最先端でカッコイイじゃんっ…!?笑
(実は邦楽を全く聞かなかったわけではない。バンプやスピッツはそこそこ聞いた。俺が洋楽を好む理由はもっと深い部分にあるきがするのだけど、長くなりそうなので今は触れないでおこう。)

そこで俺は提案する。

歌詞の和訳をやろうじゃないか!!

つまり今まで聞き流してきた曲達の歌詞を和訳して、同時にスタデーイングリシュ。
カテゴリーの欄に「和訳」の文字が増えたことにお気づきだろうか。

これから徐々に和訳をアップしていこうと思う。
同時に正解がない歌詞の場合は一緒に和訳していただけると嬉しいです。

さて、まずはじめになにを和訳しよう・・・。



プロフィール

HN:
チオ
性別:
男性

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