購入してから数年経って、やっと読み終わったという感じ。理解度は4割程度。かなり現代思想や哲学の歴史的な知識を要するが、AIに尋ねながらなんとか読み進めることはできる。というか、今回、難解な書物にチャレンジするお供としてのAIのスゴさに一番驚かされた(そこかよ)。もちろん、過信は禁物だ。以前、スラヴォイ・ジジェクがよく使うレトリック、“カフェイン抜きのコーヒー”とは何かとAIに尋ねたことがあった。するとこう答えた。「それは、“痛みなくして本質は捉えられない”という意味ですよ」と。
ジル・ドゥルーズ(1925-1995)とはいったいどんな哲学者か?例えば、ソクラテスなら「無知の知」、プラトンなら「イデア」のように、ドゥルーズ哲学におけるポピュラーなキャッチコピーみたいなものを1つ示そうものならば、「リゾーム」ということになるだろう。リゾームとは、フランス語で地下茎という意味らしい。ジャガイモが地中でつながっている様子。芋ヅル式、のそれ。すごく簡単に言うと、ドゥルーズはさまざまな考え方を接続させて新たな概念を生成することを奨励する哲学者だ。よってドゥルーズは、〇〇先生の〇〇論、みたいなものを固定したまま扱うことを望まない。教科書に載っていることをそのまま使うこと(というか使える気になること)、〇〇先生がそう言っていたんだから絶対だ!みたいなものを批判する。概念というものは、教科書からまるまる手に入れられるものではない。何か概念を手に入れようとするならば、同時に何かを生成しているはずだ。生成して変化する。それこそが哲学である。ドゥルーズは、晩年の著『哲学とは何か』において、哲学とは概念を創造することだと述べている。すなわち、概念創造において、リゾーム=接続は、重要なキーワードなのである。
しかしこのリゾーム=接続には、とんでもなくクリティカルな批判が存在する。「それ、“やっぱすべてはつながってるよね”ってこと?だとしたらそれって、ファシズムじゃね?」
取引先のお偉いさんとの会食中。先方が、毎朝社員のデスクの上を雑巾で拭いているという話をする。すかさずホメる。「さすが社長。成功の秘訣は細部から!やっぱり、すべてはつながってくるんですね~」よくある返し。しかし、この相槌は打ったら最後。それは全体主義、ホーリズムなのである。なにかひとつを全体に、全体をひとつに、理由づけられるようになったその瞬間、ファシズムが台頭する。「きみ、ファシストだね。契約の話はなかったことにしよう」
ではなぜ、ドゥルーズ哲学が現代思想のトップランナーとして生き残っているのか。それはもちろん、彼の哲学のファシズム味はしっかり否定できるからである。しかしながら、その仕事をドゥルーズ自身はあまり丁寧にしてこなかった。だから千葉雅也は、彼のファシズム味、“接続過剰”をしっかりと否定するための研究を本書にまとめた。接続の哲学の逆である、切断の哲学について。
切断。これが本書のキーワードである。接続に対しての切断。接続過剰になってはいけない。動きすぎてはいけない。ここではいったん、接続vs切断の構図でまとめる。いったん、というのは、この二つの概念は単純な二項対立で捉えてはいけないものだと本書で強調されているためである。それについては最後に述べる。
まず接続性を示すいくつかのキーワードとして、〈無限〉〈アイロニー〉〈サディズム〉がある。一方で切断性を示すキーワードには〈有限〉〈ユーモア〉〈マゾヒズム〉がある。これらはそれぞれ、どのように対比されているか。代表して〈サディズム〉と〈マゾヒズム〉の対比を読むことで、全体のイメージをつかもう。ドゥルーズにおいてサディストとは、法を否定し、理念を達成しようとする性格のことを指すという。どういうことか。例えば昔、学校でこんなルールがあった。カバンにつけていい缶バッチは3つまで。ばかげている。そもそも、なぜ4ではなく3なのか?缶バッチではなくゴム製バッジなら許されるのか?チェーンキーホルダーであればいくつつけても構わないのか?3つであれば、ハーケンクロイツ缶バッチでもいいのか?やはり学校のルールはめちゃくちゃだ。そもそも私たち生徒がそんなルールを望んでいない時点で、民主的な国家を形成するなんて教育目標を達成できるはずがない。今すぐ生徒総会を開きこの不条理を糾弾し…いや、もはや革命しかない。
一方でマゾヒストはどうか。ドゥルーズによると、彼らはいったんは法を受け入れる。いやむしろ遵守する。法がわざわざ禁止してくれていることを生真面目に守る。これは決して美しい遵法精神によるものからではない。あえて守ることによって法そのものが自己破綻し、そこから漏れ出た快感を味わうためだ。つまり、否定ではないが否認である。生徒たちが、教師に聞こえるように大声で話す。「見てこれ、俺のカバン。つけてきちゃった」「お~い~。お前それ缶バッチじゃん!缶バッチはだめだって。やめとけって。3つまでだって注意されるぞ。てかお前、もう2つもつけてんのかよつっよ。俺には無理だわ~かっけえわ~。そんな度胸ないわ~」「でも知ってるか?お前。生徒会長の近藤さんはよ…3つつけてんだぜ!!!」「まーじで!?見に行こうぜ!」
サディストは、永遠に皮肉を繰り返す。なぜ4ではなく3なのか?金属製ではなくゴム製なら?無限の否定による現状突破を図る。しかしマゾヒストは違う。表面上ルールを受け入れる。しかし正しい規則でルールを変えるのには付き合っていられない。だから正規ルートを切断する。そしてその切断面に、愉しみ(セルフエンジョイメント)を見出す。逆に、モザイクで興奮する身体になっていく。
わかりやすく理解するために対比を用いてきたが、これは決してサディズムが、接続が、いけないという批判の書ではない。動きすぎ、接続しすぎによって、逆に身動きが取れなくなってしまうことへの歯止めであって、動かなすぎもまた現状への妥協でしかなく、いけない。日本にドゥルーズの哲学が紹介されて以降その接続性ばかりが焦点化されてきた。そしてさらに接続は加速する。グローバル社会、官民連携、STEAM。新自由主義にはその接続性をいいように使われてきたと思う。もちろんインターネットの寄与も大きい。接続は、止まらない。
だからこそ今、切断について考えておきたい。切断とは、なにも世間からの断絶を意味するわけではない。飽和した意味を切り離して、全体主義を避けて避けて避けながら「再接続」するために(これをドゥルーズは「個体化」とよぶ)。学び直しに必要な自己崩壊と再構築を、本書を通して捉え直すために。
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